世莉が気がついたのはその日の午後8時39分のことだった。
まわりには白いカーテンや壁、ドア。どこもかしこも白ばかりだ。見慣れない風景に彼女は戸惑った。おまけに知らない人が話しこんでいる。
「ここ、どこ?」
そのかすれた小さな声が、そこにいる皆をいっせいに振り向かせた。
「世莉! 気がついたのね! ここは中央病院よ。あんた気を失っていたの。」と母親、若野寿美子は言った。目の下が腫れている。泣いていたのだろうか。
だが、頭がボーっとしていてなかなか思い出せない。
―――なにがあったんだろう? それにこの背広を着た人たちは一体誰なんだろ…
「おぉ、良かった早く気がついて。私らは警察のものだがね、君に…第一発見者としてちょっと話を聞きたいんだ」と、警察と名乗った2人組は警察手帳をそれぞれ世莉に見せた。
「私は木村だ。こちらは有馬警部補だ。」と低い声で言ったのは、中年の小太りの男だ。物腰に、刑事らしい風格と威厳がある。しかし、顔に刻まれた深いくっきりとした目じりのシワが目立った。
もう1人の有馬警部補と呼ばれた男は、まだ26〜7歳くらいで背が高くて痩せている。一応は背広を着ているが、ネクタイは乱れ、シャツもぐしゃぐしゃで、いかにも横着な態度で壁に寄りかかっている。とてもだが、“警部補”という地位に相応しいようには見えない。
だが、世莉はその男の目を見て息を呑んだ。それは世莉に、相手を萎縮させるような鋭い視線を投げつけていたからだ。
―――なんなの、このひと…まるで鷹みたいな目だな…
その視線が自分に向けられているのを、不審に思いながら、世莉はふたたび木村の方に目を向けた。
「君はなぜ、あの廃ビルのなかにいたのか、おぼえているかい?」と、木村は聞いた。
―――廃ビル?
その途端、あのときの光景があざやかに蘇ってきた。
薄汚れた古いソファーとテーブル。白いカーテン。
あの赤い血の海。
そして、そのなかに横たわっていたのは――――!
「…人がこっちを向いて死んでた…! 血がいっぱい…包丁が胸に刺さってて、真っ赤で…!」その記憶は残酷にも鮮明に、世莉の脳裏に焼きついていた。
そんな世莉をかばうように、寿美子が刑事との間に割って入ってきた。「世莉は目が覚めたばかりなんです。まだそっとしておいてください。 それに、あんな…怖い思いして…この子自身も思い出したくなんかないんですよ。さぁ、 ここはお引取りください!!」母親の剣幕に、木村が困ったような顔をしながら、なだめるようにいった。
「しかしね、今しばらくは事情聴取ができなくても若野世莉さんからは、近いうちにすぐはなしを聞かなければならんのですよ…いずれにせよ、重要参考人なんですから…」木村は何か他に思うことがあるのか、余韻を残すような言い方をした。
すると、もう一人の目つきの鋭い有馬という刑事が、前に進み出ていった。「木村サン、そんな甘い言い方じゃいけませんよ。ここはハッキリ言いましょうや。この若野世莉が全身血まみれで通りを走っているのを見たっていう証言はとれているんだから…」
そういうと、有馬は世莉を見据えながら、意味ありげにニィーと笑った。口から黄色い八重歯がのぞいた。
木村は慌てて「有馬警部補! 」と小声で有馬をたしなめたが、もう遅かった。
「世莉が血だらけで走っていたって…何をおっしゃってるんです? 確かに発見されたときはその被害者の方の血が、この子についてしまっていたというのは聞きましたけど…世莉は気絶していたんですよ。通りを走っていけるわけが…」と、そこで、寿美子は言葉を切ると顔を青ざめさせながら、それが信じられないというように薄く笑って言った。
「まさか、世莉を疑っているわけじゃありませんよね?」木村はやれやれとため息をつき、観念したようにいった。「確かに、捜査線上で今一番犯人だという疑いが強いのは世莉さんです。現場に被害者といたわけですし、今彼が言ったように目撃証言もあります。 しかし、また現場でちらばっていた、彼女が抱えていたであろう買い物袋のなかのレシートの時刻と、スーパーの店員の話は一致しています。買い物を終えてから、被害者と共に発見されるまでの短い時間で犯行は不可能です。それに世莉さんのような中学生の女の子の力では、あんな大の男に包丁を突き刺すなんてできませんよ。無理です。それこそ魔法でも使えば、話は別ですがね。」木村はできるだけ寿美子に冷静さを失わせないように気を使って言ったのだが、相手にはそれが伝わらなかったようだ。
「世莉が人を殺したなんて、疑われるなんて…ありえないわ。きっと世莉はたまたま死体を見つけてしまっただけなのよ。真犯人はきっと私たちを馬鹿にして笑っているんです! うちの子を疑うなんて無駄なヒマがあるんなら、もっとよく真犯人捜したらどうですか!! その目がふし穴じゃないならね!」
これには、さすがに木村も眉をぴくりと動かしたが、何も言わなかった。こんなことには慣れっこらしい。
かわりに有馬が口を開いた。あいかわらず態度は横着な感じだ。「お母さん、気持ちはわかりますけどね、罪を犯した子供の母親はみぃんなそういうんですよ。」その決め付けた様な言い方をした有馬に木村はどことなく、呆れたような眼差しを向けた。自分より若い有馬にわかったようなことをいうヤツだ、とでも思っているのかもしれない。
世莉は自分の前で繰り広げられる会話をどこか遠くで聞いていた。まるでもう一人の自
分が、自分を見ているようだった。現実味がない。ついさっきまで、気を失っていたせいだろうか。
「とにかく若野世莉をこの殺人の容疑者として捜査を進めていく。殺害が衝動的にしても、なんらかの計画性があったとしても、だ。いいな? 木村」有馬はそういうと部屋をでていこうとした。
「待って」
―――この人たちはあたしを疑ってるんだ。それだけは誤解とかなきゃダメなんだ。しっかりしなきゃ!
世莉は混乱した頭を整理させながらいった。「わたし、あの男の人を殺したりなんてしてない。でもお母さんがいっているみたいに、たまたまあそこにいたわけでもない…とにかく全部話せばいいんでしょ…? だったら話します。」
○
世莉は思い出せるだけのことをありのままを話したつもりだった。
しかし、刑事は眉にしわを寄せ何度も同じ質問を繰り返してくる。「じゃ、ほんとに君は死体を見たあと、どこへも行ってないんだね? 」
ほとんどもう世莉を疑っている目だった。
「行ってないっていってるじゃないですか。あれからふらぁっとしてそこから何も覚えてないんです。 何回言ったらいいんですか?」
だが、世莉には何度も繰り返される尋問よりも別のことが気にかかっていた。
―――なんで、話を聞くのにわざわざ警察署までこなくちゃいけないのよ? ほんとにわたしがやったって信じてんの? あーあ、あの時あの廃ビルなんかに入っていかなきゃ良かった!
あの死体を発見してしまったから、こんな面倒なことになった。世莉はイライラしながら、壁に掛かった時計を見た。もう、ここで事情聴取を始められてから、3時間はゆうに経っている。
ふと、目の前のガラスのコップに目を留めた。
―――わざと落として割って、この人を驚かせてやろうか
とイタズラ心でそう思ってみた。コップは、ひじにでも当ててしまえばカンタンに落ちてしまいそうな机のすみに置いてあった。目の前の刑事は記録をするために使っているノートパソコンに向かっていて、世莉の手元までは見えないようだった。
しかし実際にやるつもりは、ない。
「ほんとにあの部屋から出てはいないんだね? 」警官にしてはあまり、気迫の足りないように見える刑事がオロオロと尋ねてくる。
―――あーーーーーー もう! イヤになる!!
ガチャ
コップが転がり落ちて割れたのと有馬が戸を開けるのはほぼ、同じタイミングだった。
「まぁだやってんのか」と有馬は半眼で明らかに年上の刑事を見下ろす。
―――割れちゃった。どうしよう…この人に見られるなんて。またなんか言ってくるんだ…ヤダな
世莉の不安もよそに、有馬は床に散らばった氷とガラスの破片に視線を移した。しかしそれを見てもなにもいわず、数秒黙り込むとハッと気づいたように、いきなり「これだ!」と叫び世莉の腕を掴んだ。
「ぎゃっ、なにすん…」言い終わらないうちに、有馬は「こいつでもこれを見たら自白すんだろ! ちょっと借りるぞ!」と驚いて目を丸くしている刑事に向けて言い放った。
「ちょ、ちょっとまだ途中で…」と言いかけた刑事の言葉を後ろで聞きながら、世莉は有馬にひきずられるように連れられていった。
○
「強引なんですね。それに、まだわたしを疑ってんですか?! っていうか、どこに連れてく気なんですか?」世莉は横目に有馬を睨み付けて、わざとぶっきらぼうに言った。
世莉は今すぐにも有馬に逆らって出ていってやりたい気分だったが、ここは有馬の走行中の車の中なのでおりるに降りれない。
「おい、おまえ」前をみながら有馬が口を開いた。
「シートベルト」
有馬の言葉に世莉は思わず自分のヒザをみた。なるほど助手席にいながらシートベルトがかかっていない。一瞬言葉に詰まる。
「…話はぐらかしてんですか。どこに連れていくのかって尋ねているんです!」
それでもなお強気を保とうとする世莉に、有馬は横を向いてうるさそうに頭を掻きながら言った。なにか、困ったことがあったとき頭を掻くのがこの男の癖らしい。「はぐらかしてねーよ。着きゃわかるって。うるっせぇガキだなー っんとに…」
世莉は思わずいいかえそうとしたが、うるさいと言われたのがひっかかったので口を噤んだ。言われたとおり、シートベルトもひっぱって、しめた。そのかわり、別の方向から攻めることにした。少しでも相手を言い負かせてやりたかったのだ。
「だけど有馬さんだって、あの刑事さんの中じゃ“ガキ”じゃないですか。なのに先輩に対してすっごく偉そう! ヒトのこと言えないんじゃないんですかぁ?」
有馬は改めてまじまじと世莉を見た。「そっか、おまえに署のなかのことなんてわかりっこないもんなぁ。あんな、俺は警部補だから、年は関係ないの。」
有馬が瞼を半分閉じた状態でぶっきらぼうに答える。初めて病院で見たあの鋭い目つきは今は影を潜めているらしい。
「ケイブホ…?」世莉が首を傾げる。「それもわかんねぇか。警官の階級だよ。いちばん上が警視総監、で次が警視監、警視長、警視正、警視、警部、んでもって警部補、その下が巡査部長、巡査。…なんでおまえにそんなこと話さなきゃなんねぇんだよ。なんか企んでんじゃねぇだろーなぁ」と、最後だけふざけた調子で言って、有馬は笑った。なんだこの人も笑うことがあるんだ、と世莉は思った。張り詰めていた警戒心が解ける。
「なにも企んでなんかいませんって。わたしはフツーの女子中学生なんです。それにしても、ケイブホってそこまで偉くないじゃないですか」世莉は“フツーの中学生”を強調して言った。世莉を疑っている有馬に対しての当て付けだ。
「ばっか。おまえ、この年で警部補ってのはすごいことなんだよ。キャリア組でないとなれねぇよ…」わざと偉そうにそういって、有馬は、車を止めた。世莉ははじめて前を向いて、フロントガラスの向こうを見た。それまでは有馬との会話に集中していて、ろくにまわりの景色など見てはいなかった。
「こっからは砂が邪魔して進めねぇな。ホラ、着いたぞ。降りろ」有馬はそういって、自分のシートベルトを外し、車を降りた。後ろに回って四角いクーラーボックスを取り出すとそれを担いだ。
そしてなにかを言おうとしてまわりを見回したが、それを言うべき相手の姿が見当たらない。
―――?
不審に思い車にもどって、窓を覗き込むと世莉がまだ席に座っていた。
―――しょーがねぇな
有馬は車のドアを開けて世莉を促した。「おい、降りろよ」
それでも世莉は動かない。うつむいたままだ。
「おいって」有馬は世莉の肩を掴んだが、すぐに離した。その肩は小刻みに震えていたからだ。
「…ここ、あれから夢にでるの…わたしがここに入っていったらあの男の人の死体があって、それから伸びるみたいに影が出てきて食べていくんです。わたしの体を…」
有馬は頭を掻いた。とても演技をしているようにはみえなかった。だが、世莉が犯人だという疑いがある以上、有馬は疑わないわけにもいかない。
「今ここにはもう死体はない。解剖に持っていったからだ。…夢ってのは本人が強く思い込んでいるものが、そのまま映像になって出てきたりするもんなんだ。あまり強く考えこむな…」そういって、有馬は世莉の手首を軽く掴み、車から降りるように促した。しかし世莉の身体は、まるで人形のようにされるがままに傾いた。目がみひらかれている。
有馬は迷った。ここでこの子を疑うことが本当に正しいのか。
試してみようと思った。
「おまえ、本当に殺ってないんだな?」有馬は世莉と同じ視線にするためにかがんで顔を自分の方に向けさせた。そして、しっかり世莉の目をみつめた。鷹のようなあの鋭い目で。こうすれば、相手の真意が見抜けると有馬は信じていた。
世莉は有馬を見て、首を縦に振った。
それを確認すると有馬は笑った。「じゃ、別に怖がることはねぇじゃねーか! 殺された男が、ただ見つけてくれただけのおまえを恨むはずもないだろ? それよりも真犯人見つけてやったほうが死んだヤツも喜ぶだろ。おまえの疑いを完ぺきに晴らすためにもさ。これは、きっと死体を発見した者に罪をきせるために、誰かが仕組んだことなんだよ」
―――あの影は殺された男に対するわたしの、怖がる気持ちなのかな…
有馬はただ、世莉に捜査を協力させるために言っただけなのかもしれなかった。だけど、世莉のなかで、今まで彼女を脅かせていたなにかが晴れた。少しずつ震えがおさまっていく。
「わかった。じゃあ、もうわたし怖がらない。真犯人見つけるために、協力したらいいんだよね?」世莉の赤みのさしだした頬を見ながら、有馬はうなずいた。そしてふいにポケットからアメをふたつとりだすと、ひとつを世莉の手の中に握らせた。そして自分もアメを口の中に放り込んで、舌でころがせながら言った。「こりゅぇきゅってけんきたすぇ」これ食って元気だせ。
世莉は有馬の無愛想な顔に似合わないイチゴ味のアメを見て、笑った。
「おい、ひとつ聞きたいことがある。おまえが死体を発見したとき、窓の下でガラスのコップが落ちて割れていなかったか?」有馬は30分ほどどこかへいってきたらしい。世莉はすっかり落ち着きを取り戻して、座席にすわって待っていた。
「え? もー遅いよ、有馬さん。何してたの?」世莉は車のなかから有馬を見上げて、逆に聞き返した。
有馬はまた半眼で聞き返してきた。どうやら今、人の問いに答えてやる気は、まったくないらしい。「いーーから答えろー おまえが最初にあっこはいったときに窓際にコップが割れて落ちてなかったかどーかを聞−てんだ」
世莉はムッとしたが仕方ないので答えた。―――アメの“借り”だ。しょーがない
「ありませんでしたぁ。そんなもん」世莉がそういうと有馬はニヤリと笑った。
「ということは、犯人はおまえが廃ビルのなかにいるときも近くにいたってわけだ」
世莉は有馬が何が言いたいのかよくわからなかった。「なんで、そんなことがいえるの? それに、犯人があのときいたとしても、もうわたしが中に入る前に逃げちゃってたと思う。だって、わたし犯人が逃げるような音聞いたもん…」世莉がそういうと有馬は少しビックリしたような顔をした。「…どこら辺で音がしたんだ? 」
世莉は記憶を手繰りよせた。「えっと…そこの草むらで、がさがさって聞こえたから追ったの。でも、追いかけていったけど誰もいなかったよ?」
有馬は世莉の指さした方向に向かって歩きだした。真剣な顔つきだ。「…見逃した場所はどこだった?」
世莉はあわてて車を降り、有馬の後を追った。
「あ、ちょうどそこらへん」世莉がゆびさしたのはあの草むらだった。一見、そこには砂地に生える丈の短い草が、もうしわけ程度に地面を覆っているだけで、死角はないように見える。草の生えているそこは、なだらかな丘陵になっており、その向こうの景色はよっぽど背の高い人でなければ眺めることができない。
すると、ふいに有馬はその丘陵を登りはじめた。
世莉がまわりを見回していると、有馬はやっぱり思ったとおりだというような顔で振りかえり手招きをした。「おい、ちょっと来てみ」
そこはゴツゴツとした岩が点在するが海岸が広がっていた。岩の向こうには広い海と、海岸の先には人通りの多い町へと繋がっている。「ここなら隠れる場所はわんさかあるな。おまえ、ビルの裏にこういうところがあるって知らなかったのかよ?」有馬はそういいながら、地面を見ながらゆっくりと岩のある方へ歩きだした。どうやらなにかを捜しているらしい。
「知らなかったよ。だってここちょっと怖い道だし、いっつも早歩きで通るし」
有馬は、目当てのものを見つけたのかその場にかがんで拾った。「あった! 俺の思ったとおりだ」それは長い釣り糸と、小さな穴のあいた手のひらほどの丸い石だった。釣り糸はところどころに赤茶色のものがこびり付いていて、それから白銀の釣り糸の光沢を失わせていた。
有馬は世莉に向かって、得意そうにニッと笑ってから言った。
「若野!今からさっきのビルんなか入るぞ。やっぱりこれは、巧妙に仕掛けられた殺人なんだ。教えてやるよ、木村のいう゛魔法″のカラクリってやつをな!」
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