ここは廃ビルの4階だ。
実際に事件が起きたのは5階だが、捜査中の殺人現場に民間人である世莉ははいることができない。そのため、2人はこの4階の部屋にいる。4階も住居スペースだった。中はホコリが積もっていたが、家具なども置いてあってまだ以前住んでいた人の気配がわずかに感じられる。
夕日が差し込む西側の窓は、今は薄く光が部屋のなかを満たしているだけだ。そのためだろうか。天井からぶら下がった照明に隠れたナイフがきらめいていて、それに繋がれた釣り糸が太陽に反射してひかりの線をつくっている。釣り糸はさらに、天井にねじ込まれたU字型の釘にひっかけられて、カーテンレールの上にのせられた大きな氷の塊へと続いていた。釣り糸の先端を繋ぎ止めている氷からは水がぽたぽたと滴り落ち、床に小さな染みを作っている。
「これで、犯人は被害者を殺害したんだ。こっち側のナイフとカーテンの方の氷ははじめ、同じくらいの重さだ。だんだん氷は解けていって、そのときになれば・・・まぁ、あとは実際にやってみせる」
有馬は仕掛けの準備をしているのだが、世莉はそんな有馬をただ傍観せざるを得なかった。有馬は手伝えとはいわないのだ。しかし、見ているうちに有馬がどんな仕掛けを作っているのか、見当もついてきた。
「こんなの、すぐにバレちゃうんじゃない? だって糸とかナイフとか見えてるよ?」世莉は天井を指差して言った。
有馬はナイフの下に、座布団を丸めてビニールの紐で縛ったものを椅子に立てかけている。「ところが、そうでもないんだな。もうちょっとで終わるから、窓際の壁にでも立って待っててくれ」有馬はそういいながら、そそくさと備え付けの小さなキッチンへと消えた。心なしか楽しそうでもある。世莉はしかたなく窓際に立ち、氷が解けて水が落ちる様を目で追った。
―――殺人のあった部屋には絶対に入りたくない
有馬の説得で恐怖感はうすらいだとはいえ、未だ5階のあの部屋へ入る勇気はない。入ってしまえば、嫌でも死体の映像が甦るだろう。
それでも、世莉がその真下の4階へ入ることができたのは、5階を連想させないくらいに雰囲気が異なっていたからだ。
ただ、全体の間取りは実によく似ている。4階は、西に大きな窓のあるリビングに机と椅子が置いてあり、5階にはソファーとテーブルがある。そこで、殺人は発生している。さらに、リビングに隣接して北に小さなキッチンと子供の背丈くらいの冷蔵庫があり、南には凱旋階段へと続く勝手口がある。
ただし4階は、東の部屋が和室だ。そして和室の横は、少し広めの物置になっている。キッチンの横には短い廊下があり、その先の左側はトイレと浴室になっている。右側は玄関で、そこを出ると、建物の内部の階段へとつながる。浴槽とトイレ以外の部屋に、仕切りらしい戸や壁はない。唯一物置にカーテンがかかっている程度だ。また、置かれている家具調度品は、年季のはいった和風のものばかりが置かれている。食器の少なさからも、どうやら一人暮らしの老人が住んでいたらしい。
5階は、東はリビングと同じ板ばりで寝室になっている。そして、4階では物置になっていた部屋には戸があり、鍵が掛けられていた。それは部屋のなかから掛けるものではなく、外側から鍵を差し込んでかけるタイプのものだった。その部屋の中身が何なのか、捜査関係者には、まだわからなかった。鍵が見つからないのだ。
有馬がキッチンからでてきた。手にはお盆を持っていて、その上にはミネラルウォーターと氷の入ったガラスのコップがのっている。
「ん、これ」と、有馬は世莉にコップの一方を手渡した。
「これ、水? このコップ誰の?」すると、有馬はさも当然、というような顔で答えた。「ここのに決まってんだろ?」世莉は顔をしかめた。「ええ?! ダメじゃん! ずっと使われてなかったんでしょ? 汚いよ。しかも、だれのものかもわかんないのに! 」
有馬はコップがのったままのお盆を、机の上において言った。
「あぁ、誰のかってのはわかったぞ? 先日ここで殺された被害者のだ。2,3年前までここの5階の部屋に住んでいたらしい。で、ついでに身元も割れた。寺井康弘、46歳。ここの一階で産婦人科医として働いていたそうだ。もっとも、最近父親が死んじまってからは、実家の農業を手伝いに帰っていたみたいだけどな。部屋の家具をそのままにしておいたのは、おそらくまた帰るつもりがあったからだろう」
「産婦人科?」なにかが引っかかる。
「…リーダもしかしてここ、私が生まれたとこかも…」
有馬は虚をつかれたようだ。「へぇ、そりゃほんとか?」
「うん…だってこの辺のクリニックだって聞いてたもん。この辺にクリニックなんてないし、病院で生まれたんじゃないならここしかないよ」世莉は部屋の壁をなでながら言った。
有馬はこのビルの外観をみたときの記憶をひっぱり出した。まだ、建物自体は綺麗で、看板を出して営業していれば客もはいるだろう。おまけに都市に近くて、景色もよい静かなところだから、ここを選ぶ母親は多かったはずだ。それにこのあたりで不審者が出るというのはわりと最近の噂なのである。「ふぅん…繁盛してたんだな…」
―――それなのになぜ、寺井の雇い主はクリニックを閉めたんだ…?
有馬はマイルドセブンをとりだすと火をつけて吸った。しかし、一本目が吸いおわるか、おわらないかのうちに自分の携帯灰皿にそれをしまうと、リビングの窓に歩み寄って海を見た。そしてさらに自分の腕時計を見た。
「そろそろだな」
すると、有馬はカーテンを全開にした。そして手を伸ばし、世莉を窓の横の壁へ引き寄せた。「みてろ」
次の瞬間、紅に近いオレンジ色の光がサァーっと入りこんできて、部屋の家具の輪郭を消した。
強烈な光だ。真正面から見ていればおそらく眩しくて目を開けていられなかっただろう。
「うわぁぁ、すっごーーい…」
「この部屋は海と真正面に接しているから、日没時にはこうして夕日が差し込むことがある。たぶん一階はあの丘があるからそんなことはないだろうが、5階はここよりもっと早く光が入ってくるはずだ」
世莉は聞いた。「それと、殺人になんの関係があるの?」
「まだ気づかないか…」有馬は迷ったように天井を見やると、少し考えてから口を開けた。「じゃあ、あの椅子のところから、さっきの仕掛けがわかるか?」
世莉は目の横に手をかざしながら椅子に近づいた。そして恐る恐る顔を上げて天井を見上げた。
「わっ! まぶしー! 目ぇ開けてられない」世莉の網膜に光が焼き付き、視界に黒いものが浮かびあがった。
有馬はにやっと笑った。「な? みんな光に呑まれちまうんだ。天井を見るどころじゃないだろ?」世莉が目を擦りながら、壁際に戻ったのを確認すると、有馬は聞いた。
「部屋のなかが眩しければ、ふつう人間はなにをしてほしいと思う?」
「えっと…光をさえぎる…」窓から入る光をさえぎるもの。
「…カーテンを閉める?」
「そうだ。きっと犯人も寺井に言われて、カーテンを閉めにここに立ったんだろうな。そしてこの隙に」有馬はカーテンを勢いよく閉めた。古いカーテンレールが大きく上下にうなり、カーテンレールの上の氷を弾き出した。そして、目の前に垂れ下がった氷を掴むと、コンクリートの壁に打ち付けて割った。破片が床に飛び散る。夕日に反射してそれはまるで火花のようだ。
と、同時にドスッと鈍い音が背後で聞こえた。
「なに…?」
世莉が振り向くと、椅子の上の座布団にはしっかりとナイフが喰いこんでいた。ナイフには、釣り糸が石にあいた穴に通され、さらにナイフの刃と柄の間の部分にくくりつけられている。
「犯人もこうして包丁に重石をつけて、被害者に突き立てたんだ。こうすることで深く刺さる。凶器の包丁にも石をくくり付けた跡がこれと同じように残っていたんだ」有馬は包丁の証拠写真を内ポケットから取り出し、目の前のナイフのキズと見合わせた。ナイフの木の柄の一番刃に近いところがこすれて、塗料がとれている。有馬の手のナイフと写真の包丁についた傷はほぼ同じだ。「それから」有馬は座布団から引き抜いたナイフと、石と釣り糸とをとり外すとそれらを世莉の手に持たせた。2つとも重い。だがそれぞれの重さは違う。「あれ…? ナイフのほうが重たい」予想より遥かにナイフは手にずっしりとくる。「そのナイフは犯行で使われた包丁とほぼ同じ重さだ。石よりナイフが重くなければナイフが刺さる前に石が被害者にあたっちまう。石をくくりつけてるのはただ、包丁がちゃんと深くまで刺さるようにするためだ」
世莉はふと疑問に思い、聞いた。「でも、たしか包丁はさっきみたいに斜めに刺さってなかったと思う。ほとんど垂直だったよ。…それに殺された男の人は床にあお向けになって倒れていたし…それにちょっと変な格好をしてたよ」
有馬は上唇をちょっと噛むと、眉を寄せた。しかし、すぐに表情をもとに戻した。
「…ほぼ垂直に刺さっていたのは、あのソファーの深さからいって寺井が背もたれに寄りかかっていたところを刺されれば垂直にもなるだろう。…寺井は犯人に対して警戒心をあまり持っていなかったんだろうな…」有馬は頭の後ろを掻いた。
「それに被害者は検死の結果じゃ、刺されてから数分は生きていたらしい。その間にソファーから移動することはできる…」
世莉はそっか、というふうに口を動かしてから有馬を見た。
有馬は世莉の顔を見返す代わりに目の前に置いてあるコップを手にとり、窓際までもっていきそれを落した。ガラスのコップは派手な音がして割れた。
「わっ! もう、なんで割るの?」驚いて、世莉が言った。
「現場の再現だよ。このコップが現場で割れて落ちてたんだ。おまえは見てないというから、きっと気絶した後に犯人が割ったんだろう」有馬は床をあごでしゃくって続けた。「おまえが氷の破片を見たと証言しても、乱闘の末にでも割れたコップの氷だったということで片付けられるからな。少しでもこのトリックがばれてしまわないように工作したんだろうぜ。ちなみにコップの水には睡眠薬がはいってた。」世莉が口をはさんだ。「それって寺井さんて人がいれたんでしょ? ふつうお客さんに睡眠薬入りの飲み物なんてだすかな? あ、それとも自分用?」
有馬は少し考えてから、言葉を続けた。「いや、おそらく位置からいって客にだしたんだろう。相手のためでも、自分のためにでも、いまから2人で話そうってときにそんなことをするのは奇妙じゃないか。それはまだわからないことのひとつなんが……まぁ、被害者がなにをしようとしてたか知らないが、少なくとも犯人は、寺井が飲み物を用意している隙に、このトリックを仕掛けたんだろう。で、夕日がかたむいて眩しくなってきたところで準備していた寺井を、なにかしら理由をつけてリビングに呼び出したってところだろう…少しでもタイミングがずれれば危ういトリックだけどな……」有馬はそういって、また少し考え込んだ。
―――自分のいっていることに、確信がもてなくなってきた。きっとなにかが矛盾している。
それは一体なんだろうか……?
○
有馬は、仕掛けに使った座布団やらナイフやらをみな、クーラーボックスに突っ込んだ。
考えたところで答えはすぐにはでない。
「ほら、おまえもそのへん片してくれ。いちおう住んでないとはいえ、人んち荒らしちまったからな。終わったら、車で家まで送ってく。もう暗くなりかけてるぞ。今日は帰るしかないな。ここは電気もなんにも通ってないんだから」見ると、あれだけ明るかった室内はすでに薄暗くなっていて、夕日が海に溶けるように沈んでいた。濃いブルーの東の空には、星まで浮かんでいる。
世莉も慌てて片付けはじめた。窓際のコップに目を留めると、まわりに箒がないかどうか見回した。暗くてほとんどなにも見えない。あきらめて、手で拾うしかなかった。
コップの破片をつまむとそれは手からつるりとすべり、世莉の指を引っ掻いていった。「あいたっ!」指の先から、みるみるうちに赤いしずくが湧き出る。そしてそれは重力に逆らいきれずに落ちて、制服のスカートを汚していく。
―――痛かったんだろうな、あの人も。…どう思って死んでいったのかな…犯人は氷を割るときどう思った? 目の前で人が死んだときは……
昨晩はまったく眠ることができなかった。いつもどおりに両親と喋りながらご飯を食べているときや、TVを見たりする何気ない日常の動作のなかでふと、思い出してしまうのだ。死体を見た、という現実を。
「うげっ血が出てるぞ! 痛そうだなー…そーだ、このタオルで止血しろ。おい、聞こえてるのか?」いつのまにか有馬が世莉の横にいた。
「…え?」
有馬は自分のこめかみの辺りをつかむと、軽く首を横に振ってため息をついた。
「おまえ、重症だな…早く帰ってさっさとメシ食って、んで寝ろ」
世莉は、破片を拾い始めた有馬に聞いた。
「有馬さんは…」大きく息を吸い込んだ。「はじめて人が死んでるの見たとき…どう思った?」
有馬の目が大きく見開かれた。世莉の手にタオルを押し付けると、黙ってクーラーボックスを肩にかつぎながら勝手口に向かって歩き出した。世莉はなおも繰り返す。「ねぇ、どう思ったの?」
有馬は歩みを止めると、後ろを向いたままでいった。「別に何にも。怖いんなら、死体は人形とでも思いこめ…」
世莉が怒ったように言った。「そんな! 有馬さんてすっごく冷たい人! 相手は私たちと同じ人間なんだよ! ついこのあいだまでしゃべったり、笑ったりした…」
有馬は途中でさえぎった。「それでも! そうでも思わなきゃやってけねぇだろ」
世莉は、口を噤んだ。有馬の仕事は無残な死体を、何体も見なければ始まらないものなのだ。甘いことはいってられないのかもしれない。
有馬は振り返って、苦笑しながら言った。「まぁ、俺は見すぎて、とっくに見慣れちまったけどな」そういうと、世莉の腕を持ってひっぱった。
「早く帰ろう。もう真っ暗だぞー。オバケがでるんじゃないか?」有馬のオドロオドロしい口調に、おもわず世莉はあせって扉の外へ出た。
しかし、よく見ると有馬は、大人が子供を従わせるために使う、あのわざと脅かすような感じの顔をしている。
「なっ! 子供扱いしないでよね! もう高1なんだから」
有馬はまた、にやっと笑った。
「まだ十分ガキじゃねぇの」
そうして凱旋階段を駆け下りた。
世莉が怒って何かをいうのを聞きながら有馬は一人、五階を見上げる。
まだ、何かある。
きっと大きな秘密があの部屋のなかで息をひそめている。
早く暴きだして、そして……
○
あたりは真っ暗だった。昼か夜かの区別もつかなかった。
時計だけが頼りだ。ポケットから小型の懐中電灯をとりだすと外に明かりが漏れぬように気をつけて見た。
11時46分。そろそろいいだろう。
目の前の戸を開けた。すべりが悪いのか、キィーと音をたてる。心臓が口から飛び出そうなほどに、跳ね上がった。
落ち着け…落ち着くんだ……
音はなるべく立ててはいけない。頭をぶつけないように外へ体を出す。さっきまで身を隠していた場所の真上には、茶色いビンがずらりと並んでいる。あたりには薬品のにおいが漂っている。病院特有のものだ。
昼間、人々が出て行って無人になった隙に忍び込んだ部屋の扉の上には、医薬品庫とかかれていた。
すでに人を一人殺しているとはいえ、犯行前のこの緊張感には慣れない。どうしようもない不安が襲う。この心臓の音で、見回りの看護師が自分に気づいてしまうのではないだろうか。捕まってしまうのだろうか。そしたら、調べられて…
このままなにも盗らずに帰ろうか。明日の昼まで待って、入院患者の家族になりすまして帰ればいい。行きはできたのだから、帰りもどうってことはない。ばれたところで何も盗っていなければ、“迷い込んだところで鍵をかけられここで一夜を明かした”といっても多分通じるだろう…
だが、そうなればあの3人は、これからものうのうとこの世に生き続けてしまう。自分の犯した罪を省みず、またあのかわいそうなもの達を穢れた手で、飽きもせず作りだすのか…
そんなのはダメだ…駄目だだめだダメダころす殺す殺す殺す殺すコロス!
あいつらは神の領域を土足で踏み荒らした。許してはいけないヤツらなんだ。
自分の他に誰があいつらを処刑する? 警察はあいつらを殺ってはくれない。
ただ捕まっただけなら、“あのこと”がやつらの口から世間に知れわたってしまうかもしれない。
自分でやるしかない。
たくさんの死んでいった仲間の代わりに、あいつらに復讐してやるんダ。
妙な高揚感が自分のなかで湧き上がってくるのを感じた。むしろ、自分が正義にさえ思えてくる。自然とさっきまでの不安はすっかり消えていた。
暗くても、目的の物の保管場所は頭に入っているからわかる。あいつの見舞いに見せかけて、何度も足を運ばせては確認したおかげだ。
足早に一番奥の棚へとすすむ。
おっと、アレはうっかり落してビンを割りでもしたら、大変だ。ここは窓もドアもしまっている、密室だ。明日の朝、自分の骸が床に横たわることになってしまう。
慎重に…そっと…
“劇物注意”とかかれたガラス戸に手をのばした。
手に取ったビンには、シアン化カリウムとかかれている。
これだ。
ポケットから小さい空き瓶を取り出してこぼさないように入れ、フタをしっかりと閉めた。
そしてビンを元の場所へと戻した。
これで、しばらく気づかれることはあるまい……
そうだ。
口の端を吊り上げた。
警察へあいつらを消すことを教えてやろう。あの3人は自分が殺されること知って、怖気づくんだ。そして、自分がやってきたことを後悔するだろう。
だが、そのときはもう遅い。そのころにはすでに死んでいるからだ。
それから今までなにも知らず生きてきた、あの子の日常を奪ってやろう。
これは、当然の報いだ…なぜなら、私達はみな幸せになってはいけないのだから。
ワタシタチモマタカミニユルサレルベキソンザイデハナイ
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